多元物質科学研究所
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研究内容

   量子力学によれば、波動関数は対象とする系の状態を完全に記述します。したがって、正しい波動関数を知ることができれば、あらゆる物理量を正確に予言できることになります。しかし、残念ながら、ごく限られた単純系を除いて、波動関数を数学的に厳密に求めることはできません。この抗うことのできない事実が、より精密な波動関数を知り、その系に内在される物理を余すところなく抽出しようとする理論的試みが古くから常に自然科学の中心的課題の一つでありつづけた根本的理由です。また、この事実こそが、様々な状態の波動関数を実験観察しようとする髙橋正彦研究室の最大のモチベーションでもあります。

    当研究室は、現在、気体の孤立分子の波動関数を研究対象としています。分子の魅力は、何といってもその多様性にあります。実際、現在知られている元素の種類は全部で118種類ですが、それらを組み合わせてできた分子の種類は600万以上にも及び、今も毎年のように数十万種の分子が新しく合成・単離されているそうです。また、同じ種類と数の元素が組み合わさった分子でも、分子構造の僅かな違いが諸物性の大きな違いをもたらすことも少なくありません。分子の世界は、いわば、未知の物理現象や反応性・機能性を豊富に埋蔵する大鉱床です。

   そうした反応性・機能性を決めるのが、分子内に束縛された、ある特定の分子軌道(電子ごとの波動関数)の形です。当研究室は、分子軌道の形を運動量空間で観測する電子運動量分光の分子科学への展開を図るための基盤技術として、1992年の着手以降、一連のマルチチャンネル計測技術の開発に取り組みました。その結果、最終的には、従前と比較して検出感度の500,000倍もの向上に成功しました[参考文献#1-3]。このマルチチャンネル電子運動量分光技術を駆使して、現在は以下の【1】から【4】に記したプロジェクトに取り組んでいます。これらの多くが、世界で他に類を見ない、当研究室ならではの独創的な研究課題です。

*より詳しくは下記論文を参照ください

(1)Electron momentum spectroscopy study of lone pair orbitals of thiols and dimethyl sulfide
M.Takahashi, H. Nagasaka, and Y. Udagawa
J.Phys. Chem. A101, 528-532, 1997.
DOI:10.1021/jp961912j
(2)A high sensitivity electron momentum spectrometer with simultaneous detection in energy and momentum
M.Takahashi, T. Saito, M. Matsuo, and Y. Udagawa
Rev. Sci. Instrum. 73, 2242-2248 (2002).
DOI:10.1063/1.1473223
(3)A highly sensitive electron momentum spectrometer incorporating a multiparticle imaging detector
M.Yamazaki, H. Satoh, M. Ueda, D. B. Jones, Y. Asano, N. Watanabe, A. Czasch, O. Jagutzki, and M. Takahashi
Meas. Sci. Technol. 22, 075602 (13 pages) (2011).
DOI:10.1088/0957-0233/22/7/075602

【1】複合的時間分解電子散乱分光法の開発による化学反応の駆動原理の可視化

     (i) 時間分解電子運動量分光による化学反応の”分子軌道ムービー”の撮影

     (ii)時間分解原子運動量分光の開発による過渡系分子内力場の計測

【2】電子運動量分光による分子軌道イメージングと運動量空間分子分光の開拓

     (i) 常温気相分子の電子運動量分光

     (ii)熱高温分子や放電生成物の電子運動量分光の開発

     (iii)超高分解能電子運動量分光装置の開発

     (iv)レーザー支援電子運動量分光の開発

【3】多次元同時計測分光の開発による電子・分子衝突の立体ダイナミクスの研究

     (i) 配向分子の電子エネルギー損失分光

     (ii)配向分子の(e, 2e)分光

【4】化学反応の行き先を切り替えるスイッチの実証と探索

     (i) 相空間構造に依拠した反応動力学理論の推進

     (ii)化学反応の行き先を切り替えるスイッチの実験的検証とその応用

【1】複合的時間分解電子散乱分光法の開発による化学反応の駆動原理の可視化

    このプロジェクトは、高速電子散乱を利用した複合的実時間分光法の開発により、化学反応の駆動原理を可視化することを目的とします。この複合的実時間分光法は、過渡系の電子軌道毎の運動量分布を与える時間分解電子運動量分光と、過渡系の原子種毎の運動量分布を与える時間分解原子運動量分光から成ります。図1_ver.2

    化学的変化のタイムスケールは一般に、アト秒からミリ秒、あるいはそれ以上までの広い範囲に及びます。これらの化学反応のうち、本プロジェクトでは、異性化や解離反応など原子核配置の変化を伴うことの多い、ピコ秒から数十ナノ秒までのタイムスケールをもつ気相単分子光誘起反応に焦点を絞ります。そのうえで、分子内の原子核に働く力は電子雲との静電引力と他の原子核との静電反発力との和で与えられるとのヘルマン・ファインマンの定理に基づき、過渡系の電子運動量分布(運動量空間分子軌道の二乗振幅確率密度分布)と原子運動量分布の一連の実時間測定から、化学反応が進むにつれ分子軌道がどのように形状変化したかを運動量空間で視覚化でき、さらにその電子雲の形状変化が各原子核にどのような大きさの力をどの方向に与えたかが分かると期待されます。

    私たちは現在、上記の目的に向けて、研究を進めています。具体的には、開発した時間分解電子運動量分光装置[#4]を用いて、ピコ秒オーダーのごく短い時間しか存在しない短寿命種のHOMO軌道の形状を世界で初めて観察することに成功しました[#5]。この研究は、「化学反応の分子軌道ムービー」の撮影を可能とした先導的・開拓的業績であるとNature誌[#6]や米国物理学会誌[#7]に報道されました。さらに、エネルギー的に最も浅いHOMO軌道のみならず、すべての束縛分子軌道の形状を時間分解電子運動量分光が観測可能であることも実証しました[#8]。また並行して、桁違いの検出効率をもつマルチチャンネル型原子運動量分光装置[#9]を開発し、過渡系の原子運動量分布の時間分解測定へ挑もうとしています。本プロジェクトは、化学反応動力学の理論家、Chaoyuan Zhu教授(台湾国立交通大学)らとの共同研究として、進めています。

*より詳しくは下記論文を参照ください

(4)Development of an (e,2e) electron momentum spectroscopy apparatus using an ultrashort pulsed electron gun
M.Yamazaki, Y. Kasai, K. Oishi, H. Nakazawa, and M. Takahashi
Rev. Sci. Instrum.84,063105 (10 pages) , 2013.
DOI:10.1063/1.4809792
(5)Molecular orbital imaging of the acetone S2 excited state using time-resolved (e, 2e) electron momentum spectroscopy
M.Yamazaki, K. Oishi, H. Nakazawa, C. Zhu, and M. Takahashi
Phys. Rev. Lett. 114, 103005 (5 pages) , 2015.
DOI:10.1103/PhysRevLett.114.103005
(6)Imaging of excited electronorbitals
Research Highlights, Chemistry: Nature (London)519, 392, 2015.
DOI:10.1038/519392d
(7)Catching a molecule in an excited state
T.Wogan
Focus: Physics8, 23, 2015.
URL:https://physics.aps.org/articles/v8/23
(8)Ionization propensity and electron momentum distribution of the toluene S1 excited state studiedby time-resolved binary (e,2e) spectroscopy
M.Yamazaki, Y. Tang, and M. Takahashi
Phys. Rev. A94, 052509 (5 pages), 2016.
DOI:10.1103/PhysRevA.94.052509
(9)Development of multi-channel apparatus for electron-atom Compton scattering to study the momentum distribution of atoms in a molecule
M. Yamazaki, M. Hosono, Y. Tang, and M. Takahashi, in preparation.
REVIEW OF SCIENTIFIC INSTRUMENTS 88(6), 063103 (7pages), 2017
DOI:10.1063/1.4986459

 

【2】電子運動量分光による分子軌道イメージングと運動量空間分子分光の開拓

    keVオーダーの高速電子を励起源として起こるコンプトン散乱の運動学的完全実験、電子運動量分光を用いれば、分子軌道一図2_ver.2つ一つの形状を観測できます[#10]。 このプロジェクトは、そうした電子運動量分光のユニークな特徴を活かして、運動量空間分子分光学の開を目指します。運動量空間で波動関数形を観測することの利点は、フーリエ変換の性質に由来し、反応性など分子の物理化学的性質の多くを支配する、波動関数の原子核から遠く離れた部分の違いを鋭敏に観測することができることです。

    本プロジェクトでは、常温から様々な特殊環境下までの気相分子を対象とします。また、超高エネルギー分解能化も並行して図ります。具体的には、以下のように概括できます。

(i)常温気相分子の電子運動量分光

    私たちは、生成分子イオンのaxial recoil解離を利用して分子軌道の運動量空間3次元観測を具現化し[#11,12]、また運動量空間波動関数に固有のdensity oscillationと呼ばれる現象を利用して分子軌道を構成する原子軌道の空間的配向と位相を決定する[#13-15]など、世界に先駆けた独自の分子分光研究を推進してきています。

*より詳しくは下記論文を参照ください

(10)Looking at molecular orbitals in three-dimensional form: From dream to reality
M.Takahashi
Bull. Chem. Soc. Jpn.82, 751-777, 2009.
DOI:10.1246/bcsj.82.751
(11)Observation of a molecular frame (e,2e) cross section: An (e,2e+M) triple coincidence study on H2
M.Takahashi, N. Watanabe, Y. Khajuria, Y. Udagawa, and J.H.D. Eland
Phys. Rev. Lett. 94, 213202 (4 pages), 2005.
DOI:10.1103/PhysRevLett.94.213202
(12)Molecular-frame (e,2e) experiment for N2 at large momentum transfer
D.B. Jones, M. Yamazaki, N. Watanabe, and M. Takahashi
Phys. Rev. A87, 022714 (5 pages), 2013.
DOI:10.1103/PhysRevA.87.022714
(13)Interference effects on (e, 2e) electron momentum profiles of CF4
N.Watanabe, X. J. Chen, and M. Takahashi
Phys. Rev. Lett.108, 173201 (5 pages), 2012.
DOI:10.1103/PhysRevLett.108.173201
(14)Oscillation of the electron-density distribution in momentum space: An (e, 2e) study of H2 atlarge momentum transfer
M.Yamazaki, H. Satoh, N. Watanabe, D. B. Jones, and M. Takahashi
Phys. Rev. A90, 052711(5 pages), 2014.
DOI:10.1103/PhysRevA.90.052711
(15)Relationship between interference pattern and molecular orbital shape in (e, 2e) electronmomentum profiles of SF6
N.Watanabe, M. Yamazaki, and M. Takahashi
J.Electron Spectrosc. 209, 78-86, 2016.
DOI:10.1016/j.elspec.2016.04.004

(ii)熱高温分子や放電生成物の電子運動量分光

    分子振動によって分子軌道の形が変化し、その結果、電子状態や電子遷移の性質がしばしば変わること(振電相互作用)が古くから知られています。私たちは、そうした分子振動のうちの最軽微な零点振動による波動関数形の歪みを捉えることに成功しました[#16-19]。この成果を踏まえて、より激しく分子振動する熱高温分子や放電生成物に実験の対象を拡げようとしています。

*より詳しくは下記論文を参照ください

(16)Vibrational effects on valence electron momentum distributions of ethylene
N.Watanabe, M. Yamazaki, and M. Takahashi
J.Chem. Phys. 137, 114301 (8 pages), 2012.
DOI:10.1063/1.4752653
(17)Vibrational effects on valence electron momentum distributions of CH2F2
N.Watanabe, M. Yamazaki, and M. Takahashi
J.Chem. Phys.141, 244314 (8 pages), 2014.
DOI:10.1063/1.4904705
(18)Theoretical study of molecular vibrations in electron momentum spectroscopy experiments on furan: An analytical versus a molecular dynamical approach
F.Morini, M. S. Deleuze, N. Watanabe, and M. Takahashi
J.Chem. Phys.142, 094308 (13 pages), 2015.
DOI:10.1063/1.4913642
(19)Electron momentum spectroscopy of dimethyl ether taking account of nuclear dynamics in the electronic ground state
F.Morini, N. Watanabe, M. Kojima, M. S. Deleuze, and M. Takahashi
J.Chem. Phys.143, 134309 (11 pages), 2015.
DOI:10.1063/1.4931918

(iii)超高分解能電子運動量分光装置の開発

    二つの高速電子の同時計測検出を分解能よく行うことが技術的に難しいため、電子運動量分光のエネルギー分解能は一般にeVオーダーに留まっています。そこで、私たちは超高分解能化を試みています。これにより、単純分子の振動分離した実験が可能となり、振電相互作用の起源に直接的に迫ることができると期待されます。また大きな分子の分子認識や薬理作用にも展開できるのではないかと期待されます。

(iv)レーザー支援電子運動量分光の開発

    超短パルスレーザー技術の発展により、近年では原子分子の内部で電子が感じる電場と同程度以上の強い電場を光によって作ることが可能となりました。従来の摂動論では取り扱えない、そうした強光子場下での原子分子の電子構造と波動関数の形状を観測するレーザー支援電子運動量分光の開拓を試みています。これは、電子散乱の理論家、Konstantin Kouzakov教授(モスクワ大学)らとの共同研究です[#20, 21]。

*より詳しくは下記論文を参照ください

(20)Laser-assisted electron momentum spectroscopy
K.A. Kouzakov, Yu. V. Popov, and M. Takahashi
Phys. Rev. A82, 023410 (14 pages), 2010.
DOI:10.1103/PhysRevA.82.023410
(21)Theory of laser-assisted electron momentum spectroscopy: Beyond the Volkov Born approximation
K.A. Kouzakov, Yu. V. Popov, and M. Takahashi
J.Phys.: Conf. Ser.288, 012009 (5 pages), 2011.
DOI:10.1088/1742-6596/288/1/012009

【3】多次元同時計測分光の開発による電子・分子衝突の立体ダイナミクスの研究

    電子が分子と衝突する時、入射電子ビーム軸と分子軸との角度や衝突径数(衝突時の最近接距離b)の大きさに依存して、衝突図3_ver.2の確率や衝突の内容が異なるのではないでしょうか。電子衝突は最も基本的な反応素過程で、1925 年にノーベル物理学賞を受賞したFranck とHertz 以降、様々な電子衝突実験が行われてきているにもかかわらず、この素朴な問いに対する一般的な答えを未だ誰も知りません。本プロジェクトの目的は、そうした基本的な問いに初めて応える「電子・分子衝突の立体ダイナミクス」という研究分野の開拓と確立です。

    実は、上記の私たちの研究[#11,12]は、図の(close、垂直)の配置における高速電子の散乱を利用したもので、「分子軌道の運動量空間3次元観測」と「電子・分子衝突の立体ダイナミクス」の双方をパイオニア的業績と位置付けられています。この研究では、非弾性散乱電子と電離電子、および標的分子の空間的配向の情報を与える解離イオンの、3つの荷電粒子のベクトル相関(エネルギー相関と角度相関)を同時計測しました。この計測技術を基礎として、本プロジェクトでは、様々な分子配向や幅広い衝突径数領域を対象とした

    (i) 配向分子の電子エネルギー損失分光

    (ii)配向分子の(e, 2e)分光

の二つを推進します。前者(i)は(非弾性散乱電子・解離イオン)のベクトル相関を計測し、中性励起過程を主として対象とします[#22]。一方、後者(ii)は(非弾性散乱電子・電離電子・解離イオン)のベクトル相関を計測し、イオン化過程を対象とします。

*より詳しくは下記論文を参照ください

(11)Observation of a molecular frame (e,2e) cross section: An (e,2e+M) triple coincidence study on H2
M.Takahashi, N. Watanabe, Y. Khajuria, Y. Udagawa, and J.H.D. Eland
Phys. Rev. Lett. 94, 213202 (4 pages), 2005.
DOI:10.1103/PhysRevLett.94.213202
(12)Molecular-frame (e,2e) experiment for N2 at large momentum transfer
D.B. Jones, M. Yamazaki, N. Watanabe, and M. Takahashi
Phys. Rev. A87, 022714 (5 pages), 2013.
DOI:10.1103/PhysRevA.87.022714
(22)Forward–backward asymmetry in electron impact ionization of CO
Noboru Watanabe, Masahiko Takahashi
The Journal of Chemical Physics 152(16) 164301 (7 pages), 2020.
DOI:10.1063/5.0006256

【4】化学反応の行き先を切り替えるスイッチの実証と探索

    原子・分子の化学反応はそれらの相互作用が作り出すポテンシャル地形上のある“麓(ふもと)”から出発して、“峠”を越えて別の“麓”へ至る運動として捉えることができます。スケールこそ異なりますが、宇宙の中での惑星の動きも粒子の動きとして同様に考えることができます。近年、宇宙船と惑星の間に働く重力相互作用を利用して、ちょうどハングライダーが風を利用して飛ぶように、搭載燃料をほとんど要しないで重力など自然の力を受けて必ず通る経路が存在していることが判明し、アメリカNASAはその経路を利用して宇宙船の航路を設計するようになりました。これはカオス理論と呼ばれる数学から導き出されたものです。この理論はミクロな化学反応にも当てはまり、多くの化学反応に、すべての反応する分子たちが必ず辿る反応の経路が存在することが分かってきています。

    当研究室の髙橋正彦教授を含む、北海道大学の小松崎民樹教授らの共同研究チームは、化学反応の経路が図4_ver.2エネルギーを上げるとともに切り替わるというまったく新しい現象を理論的に見出しました[#23]。高校の化学の教科書でも学ぶアレニウスの式(1884年)から現在に到るまで、化学反応の理論はエネルギーや温度を上げることでどれくらいより速く反応が進むかということを見積もることはできましたが、反応そのものの経路が切り替わるという現象はこれまで発見されていませんでした。

    当研究室では、小松崎教授らの共同理論研究チームと協力して、化学反応の行き先を切り替えるスイッチの実験的な証明と探索を試みようとしています。この切り替えスイッチは、一般の分子の化学反応における行き先を制御する新しい方法論を拓くものとして高く期待されています。

*より詳しくは下記論文を参照ください

(23)Mechanism and experimental observability of global switching between reactive and nonreactive coordinates at high total energies
H.Teramoto, M. Toda, M. Takahashi, H. Kono, and T. Komatsuzaki
Phys. Rev. Lett. 115, 093003 (5 pages), 2015.
DOI:10.1103/PhysRevLett.115.093003