超分子不斉光化学反応

    

超分子不斉光化学反応

光化学は比較的新しい分野であるが、現在では基本的な反応性はほとんど明らかにされている。その中にあって、不斉光化学は化学に残された大きなフロンティアである。事実、熱的な不斉合成の常識に反して高温側で高い光学収率が得られたり、温度・圧力・溶媒などのエントロピー関連因子で生成物キラリティーが逆転するなど,新現象が次々と見つかりつつあり、最もホットな研究領域のひとつである。

はじめに
アミノ酸や糖など生命現象において重要な役割を担う生体関連分子の多くは,鏡に映した像とは3次元的には重ならない.このような分子はキラリティー(ギリシャ語cheir(手)に由来)を持つと言われる.キラルな分子の一対の鏡像異性体は偏光に対する光学的挙動が異なる(光学活性を示す)だけで,他の物理的・化学的性質は全く同じであるため作り分けることは一般に極めて難しい.また,地球上の生命がなぜL型のアミノ酸とD型の糖という片方の鏡像体だけを用いるホモキラルな世界を形成したのかは進化における大きな謎であるが,最近その解明への端緒が開かれつつある(文献1,2).
科学に限らず,実像と鏡像の関係については古くから人々の興味をひいたようで,文学では130年も前にLewis Carrollが「鏡の国のアリス」の中で,アリスが鏡の中に入っていく場面で子猫に「鏡の国のミルクは飲めないかもしれないわね」と語りかけさせている(図1).また,絵画でもスイスの画家Hans Erniは旧Ciba-Geigy本社をズバリ「Chirality」という題の壁画で飾っている.


我々の身近にある医薬・農薬・調味料・香料などもその多くがキラルであるが,生体系はこれらキラル化合物の双方の鏡像体に対して異なる応答をする.例えば,我々の舌はL-グルタミン酸(図2左上)を旨味成分としてとらえるが,その鏡像体であるD-体(図2右上)には反応せず無味である.また,L-DOPA(図2左下)はパーキンソン病の治療薬として有効であるが,D-体(図2右下)は強い副作用を示す.

医学や薬学のみならず化学・生化学・農学・環境など多くの分野で光学活性物質の必要性が高まっており,今後ますます需要が伸びると予想される.これに応えるため,キラル触媒や酵素を用いる熱的な不斉反応によって有用光学活性物質の合成が行われている.しかし,鏡像体の一方を選択的に作り分ける汎用性のある不斉反応を開発することは難しく,現在の合成化学の主要なターゲットの一つになっている.
一方,光化学反応は電子的励起状態を経て進行することから熱反応にはないいくつかの特徴を持つ.例えば,光エネルギーを反応の駆動力とするため,熱反応のように温度の制約を受けにくく,従来の熱反応では合成困難な特異な骨格を持つ化合物を選択的に一段階で得ることができる.従って,熱と光による不斉合成はそれぞれに特徴を有しながら,お互いに相補的な関係にあるといってよい(文献3-5).
我々は,触媒量の光学活性増感剤の存在下で大過剰のアキラルな反応基質をキラルな生成物に導くことのできる不斉光増感反応に注目し,光化学的不斉増殖をめざした研究を進めている(文献6-10).その過程で,「温度を変えるだけで逆のキラリティーを持つ生成物が得られ,ある温度以上では光学収率が温度とともに上昇する」という,これまでの不斉合成の常識を覆すような結果が得られた.さらに,温度だけでなく圧力や溶媒などの環境変数でも同じような生成物キラリティーの逆転を起こせることがつい最近明らかになった.これは同じ不斉源を用いながら,環境因子を変化させるだけで両方の鏡像体を作り分けることができることを意味し,自然が鏡像体の一方しか供給しないことを考えると大きな意義がある.
ここでは,これらの予想外の現象について紹介するともに,それがどのような機構と因子によって起きるのかについて述べる.また,この現象が化学さらにはより広く科学全般に対していかなる意味を持ち,どのような新しい視点を提供してくれるのかについても考えてみたい.

不斉光増感反応
初めて温度による生成物キラリティーの逆転が見つかったのは,光学活性なベンゼンポリカルボン酸エステルを光増感剤とするシス-シクロオクテン(1Z)からキラルなトランス体(1E)へのエナンチオ区別異性化反応である(図3).

この不斉シス-トランス異性化反応では,光照射により生成する励起一重項のベンゼンポリカルボン酸エステルと基質1Zがエキシプレックス(励起錯体)を形成し,この錯体内でキラル増感剤の影響下に1Zの二重結合がねじれて光学活性な1Eを与える.光生成物のエナンチオマー過剰率(ee)は,シス体1Zから(S)-または(R)-体の生成物1Eを与える経路の活性化自由エネルギーの差(DDG焉)つまり速度定数の比kS/kRで決まる(図4).kSおよびkRがEyring式に従うとすると,その比kS/kRは温度の関数として次式(1)のように表される.
ln(kS/kR) = -DDH焉/RT + DDS焉/R (1)
ここで,DDHDDS焉はそれぞれ(S)-または(R)-1Eを与える際の活性化エンタルピーおよびエントロピー差であり,Rは気体定数,Tは絶対温度である.

温度によるキラリティーの反転
実際に,いくつかの光学活性増感剤を用いてこの不斉光異性化反応をさまざまな温度で行い,得られる1Eのeeを測定した.極めて興味深いことに,生成する1Eのeeは温度に大きく依存し,同一のキラル増感剤を用いても反応温度によって生成物の絶対配置が逆転し,その逆転温度以上ではeeは温度とともに上昇するという前例のない結果が得られた(文献7).
eeの温度依存性のデータを上の式(1)に従ってプロットしたところ,図5に示すとおり,すべての増感剤に対して直線関係が得られた.直線の傾きと切片からこのエナンチオ区別光異性化反応の活性化パラメータ(DDH焉, DDS焉)が求められる.得られた活性化パラメータの解析から,この特異な温度による生成物キラリティーの逆転と,高温側での温度の上昇に伴うeeの向上は,エントロピー差(DDS焉)が零ではなく,エンタルピー差(DDH焉)と同符号であるために起きることが明らかになった.
eeを決める活性化自由エネルギー差は次式で表される.
DDG焉= DDH焉 TDDS焉 (2)
低温では温度Tが小さいため,DDS焉を含む第2項の寄与が相対的に小さくなり,eeはほぼDDH焉で決まる.一方高温になるとTが大きくなり,DDS焉が零でなければ第2項の寄与が増大し,ある温度(反転温度T0)でDDG焉の符号が反転し,逆の絶対配置を持った生成物が得られる.言い換えれば,低温ではエンタルピー支配,高温ではエントロピー支配で生成物のキラリティーが決まっていることになる.

圧力によるキラリティーの反転
温度による生成物キラリティーの反転現象は,上のような1分子的な光異性化反応だけでなく,2分子的な光付加反応でも最近いくつか見つかってきた.従って,当初前例もなく極めて特異な現象に見えたが,実は弱い相互作用の協同効果によって反応経路が決まる場合にはかなり普遍的に起きる現象であることが最近分かってきた(文献6-8).
そこで,そのような励起状態における弱い相互作用を制御する手段として次に圧力の効果について検討した.一般的な熱反応や光反応に対する圧力効果についてはすでにかなり多くの研究があるが,不斉光化学反応に対する圧力効果については全く検討されていない.そこで我々は,上で述べたシクロオクテンの不斉光増感反応における生成物のeeに対する圧力の影響を詳細に検討した.
速度定数比kS/kRの温度Tにおける圧力依存性は次式で表される.
ln(kS/kR) = -(DDV焉/RT)TP + C (3)
ここで,DDV焉は(S)-または(R)-1Eを与える際の活性化自由体積差,Cは圧力PにおけるkS/kRの値である.実際にベンゼンカルボン酸の(ー)-メンチルエステルをキラル増感剤として不斉光異性化反応を1~4000気圧(400MPa)にわたって行い,生成物のeeの変化を圧力に対してプロットすると,図6のようによい直線関係を与えた(文献9).
興味深いことに,オルト置換のベンゼンポリカルボン酸エステルを増感剤とした場合には,圧力によって生成物のキラリティーが反転する系が見つかった(図6).1,2,4,5-ベンゼンテトラカルボン酸メンチルの系では,大気圧では(R)-1Eを主生成物として与えるが,1500気圧でラセミ体を与え,それ以上では対掌体の(S)-1Eを主生成物として与える.これは,活性化体積差DDV焉が零でなく,その符号がCと同じときは,高圧側でDDV烽の寄与が大きくなり,ついにはCを凌駕していくためであることが,式(3)から分かる.

溶媒によるキラリティーの反転
このように,温度や圧力という環境変数を変化させるだけで生成物キラリティーを自由に操り,反転までできることが明らかになってきた.これは遷移状態における秩序(自由度)の差が生成物のeeを左右する重要な要因となっていることを意味している.そこで,実験的にはさらにたやすく変えられるエントロピー関連因子である溶媒の効果についても検討した.
しかし,これまで用いてきたメンチル基のような炭化水素系のキラル置換基を導入した光増感剤を用いた1Zの不斉異性化反応では,溶媒効果は全く認められなかった.ところが,キラル置換基をグルコースなどの糖系のものに変えたところ,劇的な溶媒依存性が現れた(文献10).ジアセトングルコース(DAG)を導入した1,2,4,5-ベンゼンテトラカルボン酸エステルを増感剤とすると,室温ではペンタン,エーテルどちらの溶媒中でも(R)-1Eを同じ6%のeeで与えるが,ペンタン中では温度を下げていくとより(R)-1Eができやすくなり,-78℃で40%eeを与えた.一方,エーテルでは温度の低下とともに(S)-1Eが主生成物となり,-78℃で50%ee,-110℃で73%eeに達した.この反応をペンタンとエーテルの組成を連続的に変えた混合溶媒中(-78℃)で行ったところ,エーテル含量とeeの関係は図7に示すように大きく上に凸の曲線を与えた.この結果は,溶媒を変えるだけで生成物キラリティーを切り替えられ,その原因が溶媒であるエーテルのキラルな糖系置換基DAGへの特異的な溶媒和であることを明確に物語っている.

おわりに
このように,光化学の特性を活かして不斉光増感反応を200℃以上の幅広い温度範囲において行うことにより,逆の絶対配置を持つ鏡像体を単に反応温度を変えるだけで作り分けることができることが明らかになった.さらに,従来の熱反応でよくいわれてきた「eeは低温ほど高くなる」という“不斉反応の常識”が必ずしも正しくなく,エントロピー項の寄与を無視した根拠のない経験則(迷信)に過ぎないことが実験的に明確に示された.
最近になって,キラル触媒を用いる熱的な不斉合成や酵素を用いる生物的な不斉合成でも,同じように温度による生成物キラリティーの逆転現象が起きることが報告され(文献11,12),この一見奇異な現象がかなり普遍的なものであることが立証されつつある.また,温度だけでなく圧力や溶媒といった環境因子によっても鏡像体を作り分けられることが明らかになり,いくつかの環境因子を変数とする多次元制御の考え方を導入することにより,より穏和な条件下で高いeeを得る道が示された.
我々は光不斉合成を出発点として研究を進めてきたが,そこからかなり眺めのいいところに出られたように思う.より広い視点に立てば,不斉合成のみならず,また化学・生物系を問わず,一般に弱い相互作用の協同効果により反応の速度や平衡が決まる超分子化学や分子認識の分野全般において,エントロピー関連因子が決定的な役割を演じていると考えてよいだろう.その意味で21世紀は「エントロピー化学」の時代といえるかもしれない.
不斉光化学の分野の研究はまだ一つの突破口が開かれたばかりともいえるが,今年9月4~6日に第1回不斉光化学国際会議(http://www.chem.eng.osaka-u.ac.jp/~isap/)が大阪で開催されるなど盛り上がりつつあり,今後の大きな発展が期待される.

参考文献
1. W. A. Bonner, Origins Life Evol. Biosphere, 21, 59 (1991).
2. H. Nishino, A. Kosaka, G. A. Hembury, H. Shitomi, H. Onuki, and Y. Inoue, Org. Lett., 3, 921 (2001).
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