【プレイバックその1】  酒の肴 No.1 第1稿は1999/06/22作成 (仙台MLに投稿)

「端午の節句の話」

端午の節句にまつわる、四方山話・・・・
今宵も雑学に耳を傾けながら、ちびりちびり・・・
【2006年の旧暦5月5日は新暦では5月31日。それを考慮してお読みください。】

○「端午の節句」ちまき説
屈原は、楚の国に生まれ、二人の王に忠誠を尽くしましたが、同僚の妬みを買って追放され国を憂いながら石を抱いて川底へ沈み、帰らぬ人となりました。それは紀元前278年5月5日、汨羅(べきら)江という川でしたが、この愛国詩人の死を悲しみ、屈原の身体を魚に食べられないようにと、たくさんのちまきを作って汨羅江に投げ入れて、屈原の身体を魚から守ったといわれているようです。で、その入水した日(五月五日)を記念し、男の子は彼のように正しい信念をもって行動してほしいとの願から始まったのが、この日に「ちまき」を食べる「端午の節句」だそうですが、端午との関わり合いが今ひとつわかりませんね。
さて、そのとき投げ込まれたちまきは、竹筒に米を入れ、オウチの葉に巻いたものだったといいます。さて、このように、中国のちまきはもち米に水だけが基本で、発展形として水に油脂を加えて練ったもの、あるいは塩味の肉やピーナッツが入ったもの、あるいは、なつめ、小豆、砂糖などが入った甘いちまきなどもあるようで、日本のちまきとは若干異なるものもあるようです。もちろん、地域によってちまきの皮が笹、竹、ハスの葉、形が長方形や三角形などと異なるように、味覚もそれぞれに異なりようです。
ところで、ちまきは元々、中国で水神の捧げ物として水中に投じられたことを起源とする食べ物であるそうです。先の尖ったユニークな形は、水牛の角を表現しているということです。
○「端午の節句」:菖蒲説
端午の「端」には元来“初め”という意味があって、「午」は五と同音であることから、初めの午の日あるいは毎月の五日のことを、古くは端午といっていたそうです。五月五日に限らないわけですね。
さて、中国では邪気払いの一つとして、子供の厄払いを行っていたようです。この日生まれは不祥の子とされたという説もありますが、本当かどうか。で、中国からの伝来はたいへん古く聖武天皇の御代(八世紀)にはもう菖蒲や蓬で厄除けをしている記録があるそうです。中国では古来5月は悪い月とされ「午」の日を特に嫌っていて、蓬で人形を作って門口にかけ邪気を払う行事が行われたとされています。あるいは、この日に菖蒲酒(しょうぶざけ)を飲むなどして、邪気を払う行事が行われたとされています。
中国から菖蒲が伝えられ、日本では、五月という月が「物忌み月」で、田植えを間近に控え、身体を清める月であり、邪気を払うために菖蒲酒を飲んだり菖蒲湯に入ったりする習慣が出てきたようです。菖蒲の香気は邪気を払うといわれ、魔除の薬草とされていたようですね。この風習は、奈良時代に起こったようです。
秋田県西仙北町では、6月下旬に「しょびこ打ち」という、菖蒲を縛って、地面を打ちつけて、邪気払いをする行事があります。また、端午の節句を前にして、夜に軒端に菖蒲を葺く習慣があり、「奥の細道」にも、
“名取川を渡って、仙台に入る。あやめ葺く日なり。”
という記述があります。ちなみに、芭蕉は、“あやめ草足に結ばん草鞋の緒”という句を残しています。(5/5旧暦)
さて、ここまでは、男の子と直接結びつくのはありません。この菖捕が「尚武」と同音であることから、武家では男子のお祝いとして、甲冑や刀などを飾り、勇ましく成長することを祈ったのが、始まりだと考えられます。これがのちに形を変えて、武者人形飾りとなったのでしょうね。
なお、菖蒲湯にはテルペンという植物性の精油成分が含まれ、この成分がお湯に溶けると塩素と反応して柔らかなお湯にしてくれます。ゆず湯にも同じ効果があります。
○「端午の節句」:女の節句説
田植えの関係から五月は重要な月とされ、物忌の月で、男がではらったあと、女が家に残され、家を守っていた。この時期に、村の青少年に成年戒、成女戒が行われました。また、「さつき忌み」といって早乙女(=五月女)が田植えをする行事があったともいわれ、それらの行事が、中国の風習が習合したもの、それが、端午の節句、であるという説ですね。
なお、この季節は、岩手では、農耕馬の発育を願った、ちゃぐちゃぐ馬っこの行事があります。

 中国、特に台湾は日本とちょっと季節感が違うので、「端午節(端午の節句)」は一度目の収穫を終えた後、という区切りでやっていたようです。他にも、「春節(正月)」「元宵節」はそれぞれ、冬耕作のできないときや、お正月休みがちょうど終わった時期にやり、

  • 「清明節」は春と夏の耕作の間。
  • 「中元節」は夏の暑いとき耕作ができない時期、
  • 「中秋節句(十五夜)」は一年最後の収穫のとき。
  • 「重陽節(重陽の節句)」は冬を迎える準備をしている頃、
  • 「冬至」は陽気がよくなってきて冬の寒さが去った頃に行われるということです。

節句について:
中国では唐代には節句の風習が確立していたらしいです。三月三日の桃節(漢代の人物の三月始めに生まれた三女が三日ののち皆亡くなったことを不吉として厄払いした)五月五日の端午、七月七日、九月九日(重陽、高いところにのぼり祝う)や12月23日(かまどの神の祝い)などがあって近隣諸国に伝わったようです。
日本の「五節供」は江戸幕府が制定したといいます。しかし、すでに奈良時代に「節日」は定められていたようで、正月一日(元旦)、七日(白馬(あおうま))、十六日(踏歌(とうか))、三月三日(上巳(じょうし)・曲水)、五月五日(端午)、七月七日(七夕・相撲)、十一月(大嘗(おおんべ))を指します(養老雑令)。
で、これらの日には、天皇が出御して宴会をやり、「節会(せちえ)」と呼ばれました。平安時代には「御節会」が定められて、「元旦」「白馬」「踏歌」「端午」「豊明(とよのあかり)」(新嘗会の翌日)の五つの節会であったようですね。「五節会」と呼ばれましたが、江戸幕府が制定した「五節供」は、元旦を含みません。これは、別格扱いというわけでしょう。
人日は七草の節供、上巳は桃の節供、端午は菖蒲の節供、重陽は菊の節供などと季節の植物と深くかかわっているのは興味深いです。七夕にはこうした呼び方はしませんが、七夕竹が立てられて、平安時代には「撫子合せ」、室町時代には七夕法楽に「花合せ」が行なわれてい
ます。「いけばな」に最も関係の深い節供が、七夕であるという話です。
端午節会と柏餅:
さて、端午節会は尚武の催しとして幕府の年中行事として重要視され、この日、諸大名は江戸城に使いを出し将軍に祝いを述べ、ちまきや柏餅を献じました。
ちなみに、この柏餅のように、草木の葉で包まれていたり、巻いてあったりするお菓子というものは、古くからあり、「源氏物語」で書かれている「つばきもち」が柏餅の原点になったとされていますが、それ自体の歴史は比較的新しいもので、江戸時代の寛永年間だという説があります。で、なぜ、五月五日に食べるようになったのかは不明です。
さて、柏がいい、というのは、次の中国の伝説?が根拠になっているのではと思います。
「荊楚歳時記」に「正月一日、長幼悉正衣冠、以次拝賀、進淑柏酒、飲桃場、進屠蘇酒、惨牙賜、下五辛盤」とあり、淑柏酒(山淑と柏葉をひたした酒)を飲んでいます。正月の話ですが。
漢の「四民月令」には「淑是玉衡星精、服之令人身軽能走、柏是仙薬」晋の「抱朴子」には、山中で飢えていると、一人の老人から、松柏の葉実を食べることを勧められ、食べたところ、最初は苦くて渋かったが、そのうち慣れて食べていると飢えることもなく、冬の寒さも夏の暑さも感じなくなり、その齢は二百を越えたという記述があります。
さらに、明の李時珍の「本草綱目」では、「柏は凋落することのない、多寿の木である。道家がこれを湯に点じて常飲し、また、元旦にこれを酒にひたして邪を辞けるのは、この理由である」とあります。
ちまきについて:
なお、ちまきの方の歴史は古く、10世紀始めにはもう作られたという記録があるようですね。なお、ちまき茅の葉でまいたところから茅巻(ちまき)と呼ばれたようです。
余談ですが、鬼の子孫と称する家系の人々は、鬼の子孫であることを自認し、他の村とは交際もせず、鬼の舌に似ているため、雛祭に菱もちをつくらなかったり、鬼の角に似ているために、端午の節句にちまきを作らないなどの風習があったそうです。
現在では、和歌山県にこの子孫があるようです。
さて、上記に芭蕉のことが書いてありますが、芭蕉は旧暦の5/4仙台に入っています。3泊したあと、5/8には多賀城に来ています。
“おくの細道の山ぎはに、十符の菅あり”
と奥の細道に書いてあります。 “おくの細道”とは現在の岩切、十符の菅(とふのすげ)があったことから、利府町を“十符の里”と呼んでいますね。
関連リンク
端午の節句〜由来といわれby 晃月人形
端午の節句by 料理レシピ検索しゅふしゅふーず
端午の節供(端午の節句)(No.0727)by 暦と天文の雑学
鬼の話by 『妖怪愛護協会』から更新停止中

【プレイバックその2】  酒の肴 No.2 第1稿は2000/2/22作成 (仙台MLに投稿)

「桃の節句」

 養老雑令(奈良時代)によると、正月一日(元旦)、七日(白馬(あおうま))、十六日(踏歌(とうか))、三月三日(上巳(じょうし)・曲水)、 五月五日(端午)、七月七日(七夕・相撲)、十一月(大嘗(おおんべ))の中の、上巳の節句が、それです。
〜災い転じて福となす〜
 昔中国では三月の初めの巳の日は凶日とされており、その日水辺に出て手足を清めることでその厄を落としたこと(つまり、祓いですね)から、「巳日祓(みのひのはらえ)」と言われるようになり、日本に伝わります。日本では、紙や草などで人の形に作った「形代(かたしろ)」に身の汚れを託して祓うという「形代信仰」がありました(6月末日、12月末日に、晦日のお祓いをしますが、そのとき参殿できないとき、形代を使いますよね。それです)。お祓いの「形代」がやがて「人形(ひとがた)」に代わり、草やわらで作った人形でからだをなでてその人形を水に流す、後々「流し雛」に変わっていきます。
 「流し雛」では、「身」と「巳」をかけて、お祓い行事である上巳の風習と、「禊(みそぎ)」の行事と結びつき、巳の日祓いと称し、身のけがれ・わざわい・厄災等をその人形に身代わりとして、これを川や海に流すことで厄災をはらう行事と変化したわけです。
 さて、この上巳(じょうし)の節句は、平安時代の宮中になると、三月初めの巳の日の、風流な遊びとしての曲水の宴に変わって行きます。水辺というキーワードは同じです。この宴は水の流れに杯を浮かべ、身の汚れを払うというものでした。中国の「曲水の宴」では、杯を自分の前を通過する間に、詩を作るという、優雅な遊びに変わり、日本でも和歌を詠みお酒(避け、という意味を込めて)を頂く行事に変わっていきます。
 一方、平安時代、宮廷の婦人や子どもたちの間では「ひいな遊び」という遊びが行なわれており、これは紙で作った人形と、身の回りの道具をまねた玩具で遊ぶものや、投扇興や貝合わせなども行われ、いあば"ままごと遊び"のようなもので、もちろん、女の子の遊びです。このことは、紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」にも出てきます。
"すぎにしかた恋しきもの、枯れたる葵、ひいな遊びの調度"「枕草子」
 時代が進むと、お祓いの意味が薄れていき、人形(ひとがた)から変化した「流し雛」が、「ひいな遊び」と結びつき、貴族子女の間で雛遊びとなり、それが女の子の健やかな成長を祝う式日として定着したのが、雛祭りというわけでしょう。
 この、室町時代の末頃から始まった雛祭りは、平和が訪れた江戸時代に華麗な女の子のための行事となって確立していきます。寛永六年(1629)京都の御所で盛大な雛祭りがおこなわれたのをきっかけに、幕府や大奥でも雛祭りをおこなうようにり、やがて武士階級から町人へ、江戸から地方へと広まってゆきました。
 雛壇を設けるようになったのは江戸中期からで、それまでは畳みの上に毛氈を敷き、雛人形や調度を飾っていました。やがて、豪華なものも作られるようになり、現在まで習慣として残ってきます。
 地方によっては、旧暦に行いますが、このことは丁度海開きというか、潮干狩りのシーズンに近く、上記の貝合わせの習慣と結びついて、はまぐりを食べる習慣も根付きました。

 なぜ、桃の節句というのか、諸説がありますが、本来は悪い日とされていた三月三日に、実(実を結ぶという意)の形が邪気を払う呪力があると信じられていた「桃」を飾ることによって、魔を払おうとしたのが始まり(桃太郎の伝説もそうですね)とか、京都では丁度桃の花が咲き始めるからとか、いわれています。

 さて、雛祭りのお菓子としては菱餅を沿えます。なぜでしょうか。諸説あるようですが、一番もっともらしいのは、赤にはクチナシの色素がふくまれ、解毒作用があり、白い部分には血圧をおさえる作用があり、緑のもちにはヨモギが入っていてり造血作用(血を作ること)があるといわれて、かつ、菱形は心臓をかたどっているといわれているそうです(何となくこじつけっぽい)。
 なお、京都では、菱餅に加えて、引千切などを供えるそうで、女の子が誕生すると贈られたと伝えられているそうです。

 さてさて、辛党は、白酒よりも「桃花酒」ですね。中国の故事に、水に流れている桃の花を汲んで飲んでみたところ、気力が充実して三百歳まで長生きしたとあるそうで、「桃花酒」は諸病を取り払う効果があるとか、ま、何か理由を付けて、酒を呑むってことで。

(以下、2006/2/13追加) 桃花酒は「とうかしゅ」と読んで、桃の花を白酒に入れたものが一般的で、お内裏様とお雛様の間に、桃の花と一緒に飾ります。セットで買ってくると、桃の花がなにやらお酒を入れる道具とともにあるのに気づきます。
桃花酒に関するリンク

※ひな祭りのリンクはたくさんありますので、割愛します。ググってみてください。

【プレイバックその3】  酒の肴 No.3 第1稿は2000/2/2作成 (仙台MLに投稿)

「節分の話」

 節分は、「季節が分かれるとき」ならいつでもそうですから、立春に限らず、立夏、立秋、立冬などの前日はすべて節分といいます。旧暦の正月がこの頃であることから、立春=新しい年、と捉えられているのでしょう。実際、中国の大晦日(除夕)の儀式に、「逐儺」がありました。『呂氏春秋』には「前歳一日撃鼓驅疫癘之鬼、謂之逐除、亦日儺」とあり、この「儺」は原始社会の巫舞を元した踊りで、西周から春秋戦国にかけて民間で盛んに行われました。それが漢の時代に宮廷でも行われるようになり、さらに盛大な鬼遣いの行事に発展しました。これが「追儺」の原型です。
 『後漢書・禮儀志』によると、東漢の宮廷では、十歳から十二歳までの小僧を一二○人選び、頭に赤頭巾を被らせ、黒の衣裳を着させて、太鼓を打ち鳴らして応援の役をさせながら、一人の大男が方相氏(悪疫を払う術者)に扮して、黄金の四つの目の面具をつけ、熊の皮を身につけて盾と矛を持ち、十二人の猛獣に扮したお供を連れて踊る、という「追儺」の儀式をやており、最後は、赤頭巾の百官は宮殿の門の前に立ち、踊りの後、火把で端門から悪鬼を追い出し、悪鬼を永遠に水の底に沈ませる儀式を行います。
 朝から隋唐五代にかけて、漢と同じように追儺を行いましたが、隋の南朝の人数は漢の倍にふえました。宋代以後、追儺の内容が次第に変わり、明・清の時代には「かまど踊り=鍾馗踊り」となり、それは、人々が顔を真黒にして町中を踊りめぐり、観衆はそれにお金やお米を与えました。つまり、昔の鬼やらいの追儺風習が、次第に娯楽的な風習に変わって来たことを示しています。本質的には、民衆は疫病の本質を完全に認識できず、神と方術の力を借りて、疫病と悪鬼を追い払ったというものです。
 追儺の日本伝来は、文武天皇の頃で、『日本書紀』によると、慶雲三(七○六)年「是年天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」とあり、大舎人の一人が仮面をかぶって方相氏の役をつとめ、内裏の四門をめぐって悪鬼を追いたて、殿上人も桃の弓、葦の矢で鬼を射立てたとあります。これはその後、宮中だけでなく、神社や寺院、また上流階級にひろがりましたが、鎌倉時代以降はすたれました。しかし、追儺の行事は、やがて室町中期に中国から伝釆した「豆まき」の風習と合流し、二月の節分に行われるようになりました。正月と節分は時間的に接近しており、時には重複することもありましたので追儺が節分の行事へと自然に移行したのでしょう。
 漢の人は悪鬼を畏れ、特に大晦日に悪鬼が侵入するのを心配しましたので、桃の木を削って、それに神茶・鬱壘という二神の絵を書いて門にかけました。これが、中国の門神の起源だそうです。桃の節句につながるものでもあります。
 春を迎えるにあたって邪気や災難を払い、新しい年の福善を願った追儺の儀式は、立春の前、つまり節分と結びつき、「鬼やらい」「なやらい」「鬼走り」「厄払い」「厄おとし」「厄神送り」等と俗に称せられるようになったわけです。室町時代以降、宮中では官職の者が鬼の姿をして災害や疫病などの災いに見立て、また黄金の仮面に矛(ほこ)や盾(たて)を持った者が豆を撒きながら悪魔悪鬼を追い払い新しい年を迎えたそうです。
 また、『看聞(かんもん)日記』によると、節分に豆で邪鬼をはらう行事が室町時代の京都で行われたこと(応永三二年)が、『臥雲日件録』によると、立春前夜に家ごとに豆をまき、「鬼は外、福は内」と唱えた(文安四年)と記されています。
 後世になりますと、一般の神社やお寺でも節分の夜に豆まきが行われるようになりました。江戸時代にはいると宮中の行事ではなくなり、民間で広く行われるようになり今日に至っています。
 ただし、中国と日本の決定的な違いは、「鬼」の捉え方にあります。「鬼」の「おに」とは「隠」のことで、隠れていてふしぎな働きをするもののことを鬼と考えたのかもしれません。つまり、「鬼」は、人間を捕えて食べてしまうという恐ろしい属性がある反面、時と場合によって、人々に「富」を授与したり、危険を救ったりするという属性もあわせ持っている、という点で、実際、金太郎は足柄山の山姥によって育てられたとされています。中国の妖怪はつねに妖怪であり、決して神となることはなく、神は常に妖怪に対立した存在で、両者はあくまでも対立しているのに対し、日本人の神観念では、「神」とされていたものが「妖怪」化(たとえば、伊弉冉尊(イザナミノミコト)は死して悪魔の世界に入ったり、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、乱暴を働いて天界から追い出されたが、やまたのおろち退治をした)したり、「妖怪」であったものが「神」になったりしています。柳田国男曰く、妖怪とは「信仰が失なわれ、零落した神々のすがた」。
 さて、地方によっては節分の晩のことを大晦日と同様にオトシトリとよんだり、あるいは年齢を数えるのに節分を目安としていたとか、節分の豆を年の数だけ食べればよいといったことなども、一年のはじまりという意味で、この日は元旦ともどもたいへん重要な節目の日と考えられていました。
 節分には昔から鰯の頭を柊(ひいらぎ)の枝に刺して、鬼門や門口にはさむ風習があります。悪い鬼は鰯の臭いのと、柊は「鬼の目突き」といってトゲがあるので逃げ出すのだと説明されています。鬼門とは北東の丑寅(うしとら)の方角をいいます。
 さて、節分の行事に太巻きの一気食べ、があります。1977年に大阪海苔問屋協同組合が節分のイベントとして道頓堀で実施したのをマスコミが取り上げたのが、全国に広がるきっかけだったようで、元祖は愛知県とか兵庫県とか言われています。恵方というのはその年に美しき歳徳神がいる方角で、今年(2006年)は、南南東。巻き寿司を使うのは「福を巻き込む」からで、「縁を切らないために包丁を入れない」ということで、まるごと食べることになったようです。
 日本の伝承による御年神は、陰陽道の歳徳神と合体し、さらに祖先の霊が加えられて、年神という新たな霊魂に統一されたと考えられます。日本の年神は元旦に「恵方」から来ます。神は常在しません。年中家族と一緒に暮らす中国の竃神と違って、日本の歳徳神は人間の世界に来訪する神だなのです。歳徳神とは、奇稲田媛命(クシナダヒメノミコト)=櫛名田比売命のことで、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の奥さんです。
 歳徳神の方角は、
年の十干  在座する方位
甲・己の年 寅卯の間 甲の方位
乙・庚の年 申酉の間 庚の方位
丙・辛の年 巳午の間 丙の方位
丁・壬の年 亥子の間 壬の方位
戊・癸の年 巳午の間 丙の方位
のように決められ、毎年違うようです。
参考文献

1.国際日本文化研究センター
 http://www.nichibun.ac.jp/
 「日文研フォーラムデータベース」
 「正月の風俗−中国と日本」
 遼寧大学日本研究所副所長・馬 興国 氏
2.山形県最上郡真室川町・長泉寺(しあわせ地蔵尊の寺)
 http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/
など

 追儺は、「ついな」と読んでくださいまし。

 さて、豆まきの話です。
節分は本来、迎春の儀式、呪術です。春は五行では木気に配当されるそうで、その木気が苦手とするのは、「金剋木」の理から金気だそうです(この辺はそうなんだ、と思って下さい。私もよくわからん)。さらにその金気を封じるのは、「火剋金」の理から火の性質を有する行為または呪物を求めるんだそうです。そこで、節分に使われる豆は金気に該当するので、まず火で煎ること(火剋金)、さらにそれが、鬼門封じに結びついた、と説明する方もいます。また、生豆を使わないのは、拾い忘れたものから芽が出るとよくないことがあるから、とも。
 一方、鞍馬の鬼退治で、毘沙門天が「大豆で鬼の目を打て」と命じたという話が伝わっているそうで、鬼の目を打つので「魔目(まめ)」、また「魔滅(まめ)」につながるともいいます。
 また、別の説で、佐渡ヶ島での昔話。神様が鬼退治の時に、鬼と「夜のうちに100段の石段を作る」という賭をしました。鬼は、99段まで築きましたが、あと1段というところで朝になってしまい、くやしがって「豆の芽の出ることにまた来るぞ」と言い残し退散しました。そこで、神様は、豆の芽がでないように人々に豆を炒るように命じたと。
 あるいは、極単純に「マメになる」につながるとも言いますが、元々中国から伝わったことを考えると、元来五行の考え方があったのでしょう。
 地方によっては、豆を鬼打豆といい、炒った大豆を一升枡に入れ、いったん神棚に供えておき、撒くときは母屋の各部屋より外に向かって大声で、だそうです。
 「下に落ちた豆を食べるなんてきたない」といって、大豆ではなくピーナッツを使う場合がありますが、この風習は新潟地方から広まったそうです。

<付録>
「鬼は外」と言わないところのリスト:

青森県弘前市鬼沢・鬼神社
 鬼が御神体として祀られ、農業の守護神です。岩木山の赤倉から下りてきたという鬼が、やせた土地の開墾と農業用水の建設を行い、村に豊作をもたらしたことから、鬼に感謝するため、神社を建立して「鬼神社」と名づけ、村の名前も「鬼沢」としたそうです。ですから、「鬼は内」。
宮城県村田町
 渡辺綱がこの地で伯母に化けた鬼に腕を取り返され、鬼が逃げてしまったので、鬼が逃げないように「鬼は内」になったそうです。
福島県二本松
 「鬼は外」の「ワ」の音を抜かして、「おに、そと」。 二本松藩の殿様は丹羽氏なので、「鬼は外」と言うと「お丹羽様外」 になってしまうからだとか。
群馬県鬼石町
 昔鬼が投げた石でできた町と言われており、鬼は町の守り神になっている。そこで近年では、全国から追い出された鬼の安住の地をう たっており、「福は内、鬼は内」といい、全国から逃げてきた鬼をねぎらうようです。鬼恋節分祭=180kgのおにぎりをみこしにしてかつぐ「鬼義理道中」や「鬼の婚礼行列」など、鬼のふるさとにふさわしいイベントが盛り沢山なまつり
つくば市鬼ヶ窪地区
 鬼が地名につくことから「鬼は内」というところも家庭によって残っているそうです。
埼玉県武蔵嵐山・鬼鎮神社(きじんじんじゃ)
 平安末期に畠山重忠の館・菅谷館の鬼門を守るために作られた神社だそうで、鬼が御祭神。鬼が邪気から人々を守ってくれるということになっており、江戸時代から鬼が豆をまいて厄払いをするようになったそうです。「鬼は内、福も内、悪魔外」。
川崎市千蔵寺
 本尊が厄神鬼王(やくじんきおう)。「鬼は内」と鬼を暗くした堂内に呼び込みます。住職が鬼たちに説教をして、悪い鬼は改心させ社会復帰させるそうです。
新宿歌舞伎町鬼王神社(きおうじんじゃ)
 鬼が御祭神なので。「鬼は内、福は内」。
東京都台東区・鬼子母神(仏立山真源寺)
 恐れ入谷の鬼子母神。「福は内、悪魔外」で「鬼は外」とは言わない。
愛知大須観音
 鬼の面が寺宝なので、「鬼は外」は言わず、「福は内」のみ。
岐阜県可児郡御嵩町・鬼岩福鬼まつり
 鬼人・関の太郎が福鬼としてよみがえり、豆まきをして厄払いをするという節分のおまつり。福鬼が主役のこのおまつりでは、豆まきのときに「鬼は内、福は内」。
奈良市中院町元興寺
 元興神(がごぜ)という鬼がいて悪者を退治すると言い伝えがあることから「鬼は内、福は内」。
熊野本宮宮司・九鬼(くがみ)家
九鬼一族の本拠地。「鬼」という字はもともと「神」の意味なので、 ここでは「福は内、カミは内」と唱える。なお、この一族は、鬼の子孫であることを自認し、他の村とは正式な交際を避け(実際には一般人と同じだが、そういう、しきたり)もせず、鬼の舌に似ているため、雛祭に菱もちをつくらなかったり、鬼の角に似ているために、端午の節句にちまきを作らないなどの風習があったそうです。今は違うのでしょうけど。

<番外編>
東京世田谷区・喜多見氷川神社・節分祭(鬼問答・大黒舞)
 豆撒きが行われる前に、青・白・赤・黒の鬼が現れ社殿に上がろう とするが、それを拒む神官と問答になる。
 鬼「鬼は内と声がした」
 一同「言わぬ、言わぬ」
 神官「悪しき鬼どもだ」
 問答に負けた鬼にスルメを与え、桃の弓といり豆にて「鬼は外」と
 鬼追いをし、もとの住み家へと追い返す。
 鬼が逃げた後、一同東をむいて「福は内」と豆を撒くってな寸法。
 イザナギの神が桃の実を投げ悪鬼を払った古事にならっているとのこと。
その他、鬼問答の行われる神社
 台東区上野公園・五條天神社
 秩父市・秩父神社
変な節分行事
 「ごもっともさま」埼玉県大滝村・三峰神社
  •    3尺位の野球のバットのようなもので先に注連縄(しめなわ)を巻き、根元にミカン2個を麻縄でくくりつけた男根を象徴化したものを突き出す神事
リンク(2006/2/3追加)

【プレイバックその4】  酒の肴 No.4 第1稿は1998/09/09作成 (地酒MLに投稿)

「重陽の節句の話」

草の戸に日暮れてくれし菊の酒

重陽の節句に詠んだ芭蕉の句です。
そう、菊の酒の季節....

由来はもちろん、中国。
春節(お正月)・端午節(端午の節句)・中秋節(十五夜)・冬至・・・
こうした年中行事は、春夏秋冬の四季に均等に分散し、特に農業社会では、人々は年中行事を一年の節目の目安としていました。これら、中国の伝統的な行事はいずれも、「幸福祈願」「厄除け」等を目的としており、かつ、季節の境目の「休息」の役割も果たしているといいます。
年中行事は、生活を調整する役目を果たし、農業社会において農民の休日となっていたそうな。
実際、伝統的な年中行事は耕作と収穫の時期に合わせて行われていました。
「春節(正月)」: 冬の耕作のできない時
「元宵節」:お正月休みがちょうど終わった時
「清明節」:春の耕作と夏の耕作との間
「端午節(端午の節句)」:一度目の収穫を終えた後
「中元節」:暑くて耕作ができない時
「中秋節句(十五夜)」:一年最後の収穫のころ
「重陽節(重陽の節句)」:冬を迎える準備をしている時
「冬至」:陽気がよくなってきて冬の寒さが去った時
と、太陰暦なのでずれがありますが、こんな感じでしょう。

日本に渡って...
奈良時代に「節日」は定められており、正月一日(元旦)、七日(白馬(あおうま))、十六日(踏歌(とうか))、三月三日(上巳(じょうし)・曲水)、 五月五日(端午)、七月七日(七夕・相撲)、十一月(大嘗(おおんべ))を「節日」としていました (養老雑令)。
天皇が出御して宴会を行ったので、「節会(せちえ)」と呼ばれました。ところが、このときは、九月九日(重陽) が外されていて、これは、天武天皇の忌日にあたるからと言われています。
平安時代になると、 平城(へいぜい)天皇の御代に九月九日の宴が催されるようになり、「御節会」が定められました。 それは、「元旦」「白馬」「踏歌」「端午」「豊明(とよのあかり)」(新嘗会の翌日)の五つの節会でありました。
江戸幕府は「五節供」を制定し、それ正月七日の「人日(じんじつ)」、三月三日の「上巳」、五月五日の「端午」、 七月七日の「七夕」、九月九日の「重陽」であありました。なお、元旦を含まないのは別格ということ。
いわゆる五節供は、人日は七草の節供、上巳は桃の節供、端午は菖蒲の節供、重陽は菊の節供などと呼ばれ、季節の植物と深くかかわるのが特徴になりました。
重陽とは、陽数である9という数字が重なるからで「重九の節」とも呼ばれ、おめでたい日とされたそうです(逆「五行陰陽説」では忌み嫌う日であり、それをお祓いするための行事があるとされています。どっちかいな)。
さて、
中国ではこの日、菊の芳香で邪気を払い寿命が延びるようにと願って、菊酒(菊をひたした酒)をくみかわしたり、丘や山に登り、邪気を払うとされている茱萸(しゅゆ)の実を採る「登高(とこう)」という行事がありました。中国には、菊花酒を飲んだ慈童という少年が山奥で800歳以上も行き続けたという伝説があるそうです。
平安時代に伝来したときには、宮廷の儀式「菊花の宴(重陽の宴)」となりましたが、上記のように、江戸時代になると、幕府がこの節句を武家の祝日として重要視したことから、公的な性質を備えたものになったそうです。
明治以降は次第に忘れ去られてしまい、地方によっては御九日(おくにち)(九月九目のこと)と呼ばれて、収穫を感謝する秋祭りが行われています。 そうなると、思いつくのは、“おくんち”。
“長崎くんち”(長崎、10/7-9)、“唐津くんち”(佐賀、11/2-4)があります(旧暦の9/9は今年は10/28)。
で、江戸時代から、この日には不老長寿を願って菊の花を浮かべた菊酒が飲まれ、菊の花に綿を着せてこの綿で肌をなでたりする、っていうことらしいです。
菊は、皇室の御紋章にもなっていますが、元々は中国から薬用として輸入されたものだそうで、花そのものを味わうようになったのは、室町時代と言われています。食用の菊は、花の色で大きく黄菊と紫菊に分けられます。
黄菊では、青森県八戸産の「阿房宮(あぼうきゅう)」が有名で、菊が延命長寿に効き目があるというので、奏の始皇帝の宮殿の名にあやかったようです。紫菊では、山形県産の「延命楽(えんめいらく)」が有名だそうです。

聞くところによると、菊を入れた米焼酎があるそうで...
今日は、燗酒に「延命楽」を1花落として、飲もうかしら...

【プレイバックその5】  酒の肴 No.5 第1稿は1998/10/15作成 (団塊の世代MLに投稿)

「歌枕・塩竈の話」

塩竈の高台に住んでます(注:1998年は塩竈市在住)が、雪の朝、松島を見ると、やっぱりいいな、と思います。
正月は元朝参りはもちろん、塩竈神社。玉砂利、長い階段と、気分は最高です。
寒いですが、たくさんのひと、ひと、ひと....元日だけで、30万の人が来ます。
#塩竈市の人口の5倍の人...(@_@;

本当は3日の仙台初売りよりも早く初売りをする、塩竈は、2日スタート。

塩竈というと、酒...浦霞(うらかすみ)
というと、この歌...

金塊和歌集・源実朝の歌
塩かまの 浦の松風 霞むなり 八十島かけて 春の立つらむ

が名前の由来です。
で、塩竈を歌枕にした、和歌の数々...

歌枕は「塩かま」で、「塩がま」ではないようです。

古今和歌集で、貫之は、
河原の左のおほいまうちきみの身まかりてのち、かの家にまかりてありけるに、しほかまといふ所のさまをつくれりけるをみてよめる
君まさて 煙たえにし 塩かまの 浦さひしくも 見えわたる哉

新古今和歌集で、紫式部は
世のはかなきことをなけくころ、みちのくにゝ名ある所〈々〉かきた繪を見侍て
見し人の 煙になりし 夕より 名そむつましき 塩かまの浦

續古今和歌集で、後鳥羽院は、
塩かまの 浦のひかたの あけほのに 霞にのこる 浮嶋の松
正三位知家:
塩かまの 浦のけふりも 有物を 立名くるしき 身の思ひかな
本院侍従:
外さまに なひくをみつゝ 塩かまの 煙やいとゝ もえまさるらん

これらは、塩竈、千賀浦(現:塩竈港)を詠んでいます。

新續古今和歌集では、権大納言實量:
秋きりの 籬の嶋の へたてゆへ そこともみえぬ ちかの塩かま

新後拾遺和歌集では、正三位知家:
春の色は わきてそれとも なかりけり 煙そかすむ 塩かまのうら
権僧正頼印:
こと浦の 春よりも猶 かすめるや やく塩かまの 烟なるらん
為冬朝臣:
塩かまの 浦より外も かすめるを おなし煙の たつかとそみる

詞花和謌集巻第一に、源俊頼 の、
須まのうらに やく塩かまの 煙こそ 春にしられぬ 霞也けれ

新後拾遺和謌集巻第一で、正三位知家:
春の色は わきてそれとも なかりけり 煙そかすむ 塩かまのうら
権僧正頼印:
こと浦の 春よりも猶 かすめるや やく塩かまの 烟なるらん
為冬朝臣:
塩かまの 浦より外も かすめるを おなし煙の たつかとそみる

續後撰和歌集巻第一では、後嵯峨院:
塩かまの 浦のけふりは 絶にけり 月見んとての 海士のしわさに
読人不知:
塩かまの 浦とはなしに 君こふる 煙もたえす なりにける哉
山口女王:
我思ふ こゝろもしるく みちのくの ちかの塩かま 近付にけり

ちなみに、塩がま という文字は、「奥の細道」鹽竈神社のところで
早朝塩がまの明神に詣。国守再興せられて....
というくだりで見ることができます。

【プレイバックその6】  酒の肴 No.6 第1稿は1998/08/28作成 (baby&kidsMLに投稿)

「七五三の話」

晴れ着を着せるというと、数えで3歳はつらいですね。ルーツを辿るとちょっと違うようです。

七五三の祝いを、古くは「髪置き(かみおき)」「袴着(はかまぎ)」「帯解き(おびとき)(紐(ひも)解き)」の祝いといっていました。髪置きは三歳の男女児の祝いで、もう赤ん坊ではないという意味から、今まで剃っていた髪をこの日から伸ばし始める儀式であり、いわば、乳児から幼児への脱皮。袴着は五歳の男児の祝いで、初めて袴を着ける儀式で、これから、男の子として育てる、という親の宣言もあるのかもしれません(この辺、私の勝手な推測)で、帯解き(紐解き)は七歳の女児の祝いで、着物の付け紐を取り去り帯に替える儀式です。
ですので、由来通りなら、5歳、7歳で晴れ着を着るのは、ある程度筋が通っていますが、3歳でなぜ、という感じですね。たぶん、3歳で着せたい、という親の願いから、徐々に変わっていったのではないかしら。
#それとも、呉服メーカーの陰謀か何かか? :) :)

さて、数え(生まれたとき1歳、1月1日に1歳年を取る)の年齢にあたる子どもに晴れ着を着せて、11月15日に神社(本当は氏神様)へ参詣し、子どもたちの成長と健康を感謝すると共に、今後の成長とさらなる健康を祈願する儀礼となったみたいです。
うちの近くの塩竈神社でも、「本来は数え年で祝いますが、最近では満年齢で祝う割合が高くなり、また参拝の日取りも11月15目にこだわらず、その前後の良い日の午前中に参拝するのが通例になってきた」といいます。
さて、奇数がめでたい数であり、また体調の変わる年齢でもあるので、七五三として子供に成長を自覚させ、同時に親も過保護の戒めとする節目と考えると、晴れ着を着せなくても、ささやかなお祝いをしたいなあと思います。
子供の成長を願う七五三のお祝いは、江戸時代から行われており、特に盛んになったのは明治時代以降で、関東で流行り、次に、関西で流行りだしたようですね。
(平安時代にすでに似たような行事があったといいます)

なぜ、11月15日かといいますと、1650年(慶安3年)11月15日に、3代将軍家光が虚弱であった四男徳松(後の5代将軍綱吉)の5歳の祝いを行ったのが由来であるという説があります。また、七五三は、成長を祈願した儀礼のほか、地域の氏神祭や秋の実りの後の霜月祭(収穫感謝とともに産土神(うぶすながみ)に子の守護を祈願する祭)がルーツである、という説もあります。

七五三というと、千歳飴を持っている子供がおおいですが、この千歳飴は、江戸時代の初め、浅草で飴売り八兵衛という人が「千年アメ」と名づけて売ったのが始まりといわれています。水飴を適度に煮詰めた後、飴の中に気泡を入れながら加工した物で、このために色は白くなり、量も増え、風味がよくなるそうです。で、赤く着色した物と組み合わせて紅白の飴を、長寿を願って鶴や亀が描かれた袋に入れるそうですね。
「千歳飴」という名称の起こりは、当時「飴(あまい)」のことを「せんねん」と呼んでいたことによるという説もあります。